わたしが結婚した頃、亭主殿の祖母は毎晩仏壇に向かい、経をあげていた。よちよち歩きのひ孫が来て隣に座り真似をして歌を歌うと、ひどく喜んでいたものだ。
祖母が亡くなると、寺から嫁にきた義母が後を継ぎ、毎晩「おつとめ」として経を読んだ。夏休みや冬休みには、わたしと一緒に長いこと帰省する4人の子が、嫌も応もなく、ばーちゃんと一緒に読経させられる。幸い、浄土真宗の経にはふり仮名がついているので、小学生なら読める。音の上げ下げを示す記号もある。今や成人した子どもたちは、わたしよりよほど上手に経をあげるのだ。
長男が結婚して3人の子をもうけた。長男にとって、かつての祖父母宅は「ザ・自然」の真っただ中にあり、子育てには理想的な場所だ。そして晩ご飯が終わると、「さぁみんなでお経を読むぞ!」と宣言する。
小学生には読経が退屈なだけではないかと案じていたら、どうも「祖父母宅のイベント」として楽しんでいるところもあるらしい。経の中でも正信偈(しょうしんげ)などには、「導師」だけが最初の1行を読むページがあり、「今日は俺が導師だ」なんて競争もしている。
わたしは自分が仏教徒であるとは思っていない。
しかし、アメリカの短大で文化人類学の教授が、「宗教の意義は人々に道徳と世界観を与えることだ。キリスト教やイスラム教によると、世界は全知全能の神が作ったもので、世界には始まりと終わりがある」と語った時、わたしは強い違和感を覚えた。自分の中にある仏教的なベースに気づいたのである。
孫を特に仏教徒にしたいとは願っていない。しかし孫たちが人生の指針として、道徳と世界観のかけらを仏教から得られるなら、良いことだと思っている。