詩集 片恋

詩集

あふれる想い、かなわぬ悲しさ、絶望 、そして黒い憎しみ、罪……
せつなく、ときには恐い恋心を自然の情景とからませ、日英伊の3カ国語で語る詩集(日本語版)
あなたの心のどこかに響くかも

詩集が生まれるまで
いろいろな感情がひとには隠れている。ふだん意識していなくても、ひょっとしたはずみに、おや自分にはこんな気持ちがあったのか、と驚くことが誰にもあるだろう。

わたしにとって詩を書くということは、たいていは自然の風景にインスピレーションを得てだが、心に浮かんだ風景を凝縮させ結晶化させてことばに変えていく作業であり、宮沢賢治が「心象スケッチ」と呼んだものにかなり近いものではないかと思う。その過程はまた、自分を再発見することでもあった。

たとえば「使者たち」を書いたきっかけは、カラマズー・バリー公立短大の食堂の外で昼ご飯を食べていて、縞(しま)りすたちがパンくずを求めておそろしく素早く駆け回るのを見たことだった。「このりすたちは、誰かに命じられて何かをどこかへ運ぶために走っている」という心象風景が生まれたのである。しかし最終段落まで形にしたとき、わたしは自分のなかにこんな真っ黒な「闇」が潜(ひそ)んでいたのかと驚いた。「檻(おり)」も「大鴉(おおがらす)」も同じである。それまでは、「繭(まゆ)」や「菫(すみれ)」のような、いわばきれいな感情をことばにすることしか考えていなかったから。

どちらが嘘でどちらが本当ということではない。きれいな感情も醜い感情も、善を求める心も悪への欲求も、どちらもわたしの真実である。さらには、日常の料理や子育てをしたり、技術翻訳をしたりするわたしも、わたしである。それは、これらの詩を読んでくださる読者のかたも同じだと思う。みな、誰かの親や子や伴侶(パートナー)であり、学校に通ったり仕事をしたりする社会的存在であると同時に、個人的な、自分だけの心があり、そのなかには自分の好きな感情も嫌いな感情も含まれている。


学校にいた10代のころは、国語の授業で詩をつくる機会があったが、社会に出るとそんなことは忘れ去っていた。ところが37歳のときに夫の転勤でアメリカに1年住むことになり、わたしは短大に通うことにした。とにかく英語で書く訓練を積みたかった。「ミラノで乳がん切りました」にも書いていることだ。が、当時4人の子は8歳、6歳、4歳、もうじき2歳でわたしは母親業が忙しく、大学の相談員に勧められて、受講数の少ない「パートタイム学生」ということになった。

最初にカレッジ・ライティングという作文の講座をとった。「描写」や「比較」、「主張」といった「お題」に沿って、4カ月間、家事と育児の合間に書いて書いて書きまくり、ライティングセンターというところに持っていっては真っ赤になるほど手を入れてもらい、また書き直して、けっこう長いものを計6本提出した。相当大変だったが、楽しくもあった。次の4カ月間にはクリエイティブ・ライティングという創作の講座を選んだ。英語で短編小説を書くという難事業(?)に挑戦する決心をしたのである。

当時滞在していたミシガン州の冬は、零下20数度まで冷えこんだ。あたりに点在する池や湖は次々に厚く凍っていき、その上を端から端まで歩くことができる。不思議な、ちょっと感動的な体験だった。それを基に「凍れる湖」という恋愛小説を書いた。女子学生にはかなりうけたが、残念なことに男子学生からの反応はまるでなかった。

そして、講師は詩も書けと言う。

春になると氷は解けていく。ミシガン湖はまず岸の氷が解け、家よりも巨大なガラスの破片がいくつも水中に浮かんだようになり、そして風に吹かれて沖の1カ所に集まって、今まで見たこともない印象的な風景となった。湖岸を歩いていたわたしの幼い娘は足を滑らせて深い水たまりに落ち、どっぷり胸まで氷水に浸かるという、ちょっと恐い体験をした。それらを基にして、「解けかかる氷のあいだから、こどもたちは罠にかかるように湖に落ち、湖の中心へ運ばれて、残酷な春の女神への捧げものとなる」というシャープな感じの詩を提出し、うん、これは今回一番の出来だ、と思ったら、意外にも講師には完全に無視された。

代わりに、「これよ、こんな詩をわたしはあなたたちに書いて欲しかったのよ」と授業中に皆の前で褒めてくれたのが、自分ではセンチメンタルに過ぎるかと悩んだ「四十雀」だった。そこで、わたしは詩の内容を、いわばセンチメンタルな恋愛感情へと方向転換することにした。外国にいるあいだは特別な期間で、わたしはいわば舞い上がっている状態なので、詩も浮かびやすい。主にこどもが寝たあとの夜中に、心を集中させて次から次へと書いた。わたしは他人の詩を読んだ経験がほとんどなかったが、何人かの学生には「ここまで自然と感情を絡(から)ませられるのか。ロバート・フロストみたい」とも言われた。そして「野の林檎(りんご)」を提出したら「きわめてキリスト教的ね」と講師に評され、はて、わたしの心のなかにそんなものがあったのか、と首を傾げることになった。

日本に帰ったあとで2年して今度はイタリアに住むことになった。4年目に、小さな北の町で詩のコンクールがあるというポスターを見て、応募してみようと思いついた(この辺りも「ミラノで乳がん」に書いている)。イタリア語学校の教師に相談したら、わたしが英語からイタリア語に訳した詩を喜んで修正してくれると言う。規定の3編には優しい感じの「四十雀」と「枝垂れ桜」に、強烈な「水仙」を混ぜるのがよかろう、とアドバイスしてくれ、これは1等がとれるかもよ、とまで期待する。結果は、ささやかなローザ・フィナーレ(最終薔薇賞)だった。佳作入賞くらいに当たるのだろう。受賞者に外国人を混ぜると国際的になっておもしろい、という要素もあったのだと思う。

そういうわけで、いくつかの詩には英語版とイタリア語版がある。

今さらそれを日本で発表しても、何にもなりはしないだろうとは思う。しかし、作品を仕上げたからには人前に出したくなる、というものではないか。幸い現代のインターネットは世界中で閲覧可能である。ひょっとしたら、何かが起こるかもしれない。何も起こらない可能性は高いが、それでも別にいい。

詩は、他の芸術作品と同じように、理解するより感じるものだとわたしは思っている。これらの詩のどこかが、いくらかでも読者のかたの心に響くことがあるならば、作者としては嬉しい。

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